川崎市で男子中学生が殺された事件は余りに酷く、
報道がされる度、胸が締めつけられるような、心の奥が捩じれるような、
言いようのない感情が沸き起こってくる。
そして、その感情を発端に、考えてしまう・・・。


犯人には同じ目に遭わせてやりたいとか、
今後の犯人の人生が、二度と幸せなど味わえないようなものに
なってしまえばいいとか。

こうも思う。
複数いる可能性も報道されている犯人の側にも、
こんなことにまで手を染めるほどの育ち方をしてしまった
何か酌むべき事情-例えばありがちな家庭環境等-あるのではないのか、と。

そして、こう思う。
学校?なんでいつも、学校の責任が重いように報道されるの?
結局親じゃないの?
親が子どもの変化に(真偽はともかく)気づいてないんだよ?
被害者側の親、加害者側の親。


「柄の良くない人たちと一緒にいた」
ガラが悪いと言ってもピンキリで。
こういう事件まで起こすような人たちって、
集団を形成していく間に、リーダー的存在が極悪で、
その取り巻きはとばっちりが自分に来ないように
その場の空気に合わせてるだけって構図になっていくイメージがある。
誰も抜けられない。抜けさせない。どんどんエスカレートする。

それって世界的なスケールになるとIS(イスラム国)なんじゃないの??
そもそもの集団形成のきっかけは、
欧米主流型で世の中が動かされていく中で起こった格差や歪みだったのでは?
川崎の事件でも、現代日本の格差社会の中で諦めきっているような層が
関わっているのでは?

そして考える。
暴力の連鎖は、新たな暴力を生むだけ。
暴力では何も解決しない。
ちゃめはそう思ってる。はず。
だけど。
上村くんを殺した加害者には、同じ目に遭わせてやりたいと思うのに、
世界各地で起こっている紛争に「暴力では解決しない」だなんて、
それって結局、究極に他人事だからじゃないの??・・・と。

ISに殺害されてしまった後藤健二さんは、何かあっても、
「責任は自分にある。シリアの人に責任を負わせないで」と
ビデオメッセージに残していた。その気持ち、凄くよく分かる。
だけどISと名乗って残虐の限りを尽くす集団を、
根本背景はどうあれ、このまま放置はできないのでは?
暴力でなくせるかははなはだ疑問であっても、
暴力以外でなくすことなんて、もっとできないのでは?
これって結局、ちゃめも「戦争容認」してるってことじゃないの?


上村くんの、あのとても素直で快活でいい子そうな笑顔の写真を見ていると、
こんな良さげな子を失って、加害連中は今後も生きていくのかという
憤りを抱えながら、自分の「ものの見方」がわからなくなっていく・・・。


何も考えずにいれば、何事も起こっていないかのように過ごせてしまう。
考えようとしても、同じところをぐるぐる周回するだけ。
けれど。
考えたくない、のと、考えられない、のは違う。
考えるべきことだと思えていることは、間違いではないと思う。
何度同じところを周回するかも知れなくても、考え続けたい。

そうか。
『考える人』というのは、そういう意味を持っているのかも知れないな・・・。

コメント

ブログ脳外科医
2015年2月25日21:18

故意に人を殺すような人に生きている資格はないです.人間社会に適応できないそのような人間は淘汰されるべきです.死刑廃止を唱える人達もテロリストは刑法ではなく戦争でこの世から抹殺しようとしています.罪もない人を殺せば報いを受けるのでなければ,暴力が支配する世の中になってしまうと思います.ですから悪の芽は摘むしかないのではないでしょうか.

ちゃめ
2015年2月27日8:49

>ブログ脳外科医さん、

コメントありがとうございます。
本当にそうですよね。
同時に、悪の芽だけを摘むことの難しさ、
特に戦争問題となると、誰が、何が真の意味で悪の芽なのかは、
立場によって変わってしまうことを思うと、
やはり周回してしまう私です…。

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